高遠は全国に知られる桜の名所です
私の子供が小さい頃
子供を抱っこして更にベビーカーを担いで登ったモノです
角を曲がって観えた瞬間
息を吞む
それほどの桜です
千本桜の歌の世界のように幻想的です
子供たちが巣立っても毎年恒例で登ってましたが
今年は車で近くを通過して遠くから眺めるだけにしました
・・・
私も妻も蕎麦好きなのですが
実は有名な高遠蕎麦は食べたことがないのです
(観光地の蕎麦なんて。)
そんな偏見から全く興味が無かったのでした
つい最近蕎麦の歴史を調べていて
高遠蕎麦の重要性を知ったのでした
高遠は地方で言うと伊那地方です
同じ伊那地方に内の萱と言う土地があります
内の萱は
修験道開祖役行者小角が
駒ヶ岳での山岳密教の修行中に世話になったお礼にと
そばの実を村人に伝えたという伝説のある土地です
当時は蕎麦搔で食べていたようです
蕎麦搔はそば粉を熱湯で溶くだけで食べれる手軽さから
修験道の行者の携帯食だったと言われています
そんなこともあって伊那地方はそば栽培やそば打ちが盛んだったのです
行者蕎麦と呼ぶそうです
高遠蕎麦は行者蕎麦の流れを汲むそばで
辛み大根のおろし汁に焼き味噌を溶いた辛つゆでいただく古風なスタイルです
味噌も信州の味噌は全国に知れ渡っています
その味噌を出しで溶く味噌汁
ではなく
味噌を焼いて香りを引き出しかつ甘みを焦げの苦味で相殺し
更に信州の伝統野菜である辛味の強い大根のおろし汁で溶く
という所が
いかにもそばに合いそうで期待が高まりますね
江戸時代に醬油やかつお節が開発されそばつゆが普及しましたが
それ以前の蕎麦切りの食べ方だそうです
ちなみに現代のそばに付き物のワサビも信州には名産地安曇野があります
第2代将軍徳川秀忠が鷹狩の折に大工の娘に産ませた庶子が
内密に育てられました
その子はおよそ6歳の頃に高遠藩主保科正光に預けられ
保科正之と名づけられ正光の子として養育され
21歳で高遠藩主になりました
ある時たまたま正之という弟の存在を知ってしまった第3代将軍徳川家光は
正之のことを調査したそうです
弟の駿河大納言忠長との確執があったので用心深くなっていたのでしょうね
そしてその公明正大で忠誠心の強い人柄を知った家光は正之を重用しました
正之はそば好きだったそうで
その後
出羽山形藩
会津藩
と移封すなわち国替されるたびに
移封先に一流のそば打ち職人を連れていき蕎麦文化を伝えました
ちなみにこの移封は2回とも石高が上がっており
異母兄の家光が異母弟である正之を大事にしたことが分かりますね
山形も会津も当時は農業が厳しい土地を多く抱えていたのではないでしょうか?
もしかすると救荒食として蕎麦を普及させる目的もあったのかもしれません
また正之は第4代将軍家綱の補佐をしていた際
江戸にもそばを広めたそうです
寒ざらしそばは高遠藩が献上品として開発したものだそうです
山形、会津、江戸
いづれもそばが大変盛んな地として知られています
<a href="https://px.a8.net/svt/ejp?a8mat=3ZB44G+490F8Y+AD2+3H18R6" rel="nofollow">夜行・高速バスの予約なら【エアトリ】</a>
<img border="0" width="1" height="1" src="https://www17.a8.net/0.gif?a8mat=3ZB44G+490F8Y+AD2+3H18R6" alt="">
コメント