””子育て””に重要な””境界の設定””とは?

「教育委員会に乗り込んで息子をイジメている担任の先生を処分してもらいます。」

私が空手の指導を手伝っていた頃の事です。

妻と買い物に出たら、稽古生の保護者のお母さんと町でバッタリ出くわしたのです。

そのお母さんは

いつもド派手な厚化粧に露出の多い奇抜なファッションをしてやたら大声で喋り

空手を習ってもいないド派手な厚化粧に露出の多い奇抜なファッションをした娘まで

常に一緒に引き連れて道場に来て

周囲に威圧的に振る舞う強面のヤンキー母ちゃんです。

所が

その日は控えめなナチュラルメイクに上品な服装で別人の様な印象だったのでした。

私が意外に感じているのを敏感に察したようで

前述の説明が飛び出したのでしょう。

「えっ!!Mはイジメにあってるの?・・・」

彼女の息子Mは私の息子と同い年の小学生でしたが

既にファッションや喋り方や話の内容などバリバリヤンキー感のある少年です。

お調子者なのでよくヤンキー母ちゃんにマウントを取りに行って

割と本気めの喧嘩キックをヤンキー母ちゃんからボディーに入れられていましたが

明るく人懐っこく子供らしい子供でした。

本部道場で宗家の特別組手指導を一緒に受けていた私のことを割と慕ってくれていたと思います。

イジメにあうイメージが欠片も無かったのでとても意外でビックリしました。

「遠足のお迎えに行ったら・・・

クラスみんなで使った荷物をうちの子が持たされていて・・・

私見ていて可哀想になって涙が出て来てしまって・・・」

私は

(ちょっと何言ってるか解らない。)

でした。

「あのお母さん変わってるね。私だったらうちの子がみんなの荷物持ってたら誇らしいけどな・・・」

と私の妻は後で言っていました。

Mは空手は一所懸命に取り組んでいる子でした。

気が小さく痛みに弱いので自由組手は弱かったですが

型では流派内の全国大会で優勝した子です。

うちの息子と同様に小学生のうちから指導も手伝っている子で二人は気が合うようでした。

Mの指導は

幼い稽古生の周りをグルグル回ってマニュアル通りに出来ていない子がいると

出来ていない所に蹴りを入れ大声で罵る

と言うヤンキースタイルです。

私が宗家から学んだ指導スタイルである苫米地式コーチングとは真逆でしたが

(子供のやる事なので危険性も大してないし、時間を掛けて実体験から自分で学ぶのが良いだろう。)

と考えて放置していました。

そもそも

道場長である宗家代行代表理事兼最高師範七段の指導がMみたいな大威張り指導だったのです。

子供が真似するのはある意味当然の結果です。

この道場では稽古が終わると稽古生全員で清掃をして帰ります。

いつものように私も一緒に清掃していると

「おいおい何で掃除なんかしてんだよ。かったりー。俺らレベルが掃除なんかしないでいいんだよ。」

Mが息子に掃除をやめるように説得しています。

私は遠くで掃除しながらそれとなく眺めていましたが

息子は息子なりの考えがあったようで苦笑いしながら掃除を続けていました。

Mのお母さんはご近所の保護者を大勢巻き込み

ネガティブキャンペーン

を打ち

結局、担任を追い出すことに成功してしまったようです。

「俺の母ちゃんはもう先生を3人辞めさせているんだ。」

それが

不登校を繰り返すMの自慢でした。

(・・・)

Mは

M自身で考えて取り組んで成長の糧にするはずだったちょっとした”””人生の課題”””を

お母ちゃんの歪んだ愛で

なにか極悪なモノに仕立て上げられ

ことごとく取り除かれてしまっていたのでしょう。

このような環境では子供が順調に成長するのは難しいと言えるんじゃないでしょうか?

数年後息子が参加している地区のボランティアサークルの卒業文集を見る機会がありました。

妻が

「こんなのあったよ。」

と見せてくれたのです。

そこには

「私は私の可愛い愛する弟をイジメる奴を決して許しません。」

といったボランティアサークルの活動と全く関係の無い内容が延々と書き連ねてありました。

余りの必死さと異様さにドン引きした妻は

それで私に見せたそうです。

Mの姉でした。

いったいこんな文章誰に読ませることを想定して書いているのだろう?

ボランティアサークルの代表は

「アイツは俺でも怖い。」

とMの姉のことを評していました。

その頃Mの姉は高校を卒業する歳で

Mはもうお調子者のヤンキー高校生になった辺りです。

小学生の頃はお母ちゃんや姉にボコられていたMですが

もう既にお母ちゃんや姉と殴り合いをしてもはるかに強いでしょう。

Mの家庭内ヒエラルキーは以前とは逆転しているはずです。

私は高校生になっても父母をボコろうなどとは夢にも思いませんでしたが

それはうちの親は子供に暴力など振るわない優しい親だったからです。

Mはどうなのでしょうか?

Mの姉は何故こんなに必死なのでしょうか?

Mの姉の世界観はあまりにも不自然で現実世界とかけ離れていて違和感があり過ぎます。

偽善、欺瞞、認知の歪み、共依存、癒着、家族神話、・・・

自己陶酔的な供給の搾取、ネガティブキャンペーン、受動攻撃、精神的虐待

自己愛性パーソナリティ障害

ダークパーソナリテイ

このMの姉が通っていた高校ではその間に女子生徒が自殺していました。

Mの姉が直接関係があったかは知る由もありませんが

新聞で事件を知ったとき咄嗟に思い浮かんだのはMの姉の意地悪そうな厚化粧の顔でした。

M一家に致命的に欠けているのは

””もしかして自分に問題があるのでは?””

という視点ではないでしょうか?

(自分には問題がない。)

と盲信している人が、壁にぶつかると

誰かを悪者に捏造してやっつけるしか解決策が思いつかない。

のではないでしょうか?

この家族には当時から問題性を強く感じていましたが

何がどう問題なのか?

長年上手く言語化出来ないでいました。

「愛とは技術である。」

アドラーは言いました。

相手が自立出来るように支援するための技術

それが

だとアドラーは言いました。

アドラーには自殺した兄がいました。

アドラーは、何故?と自殺の原因究明はしませんでした。

アドラーは、どうすれば?と幸せになる方法を模索したのです。

アドラーは自分の心の中深く入り社会からの洗脳を丁寧に排除して

素の精神状態で試行錯誤したのでしょう。

そして

アドラーは人の幸せは”””自立”””を土台にしている

と喝破したのです。

自立とは自活の事ではありません。

世間話では自立は自活と同義語のように扱われます。

しかし自活出来ていても自立出来ていない大人は掃いて捨てるほどいます。

例えば共依存家族の大人がそうですね。

共依存は依存症の一種です。

依存症とは自立出来ていない事により精神病的症状が出ていることです。

共依存家族の大人は自立出来ていないのです。

しかし

大抵自活は出来ています。

では自立しているとはどういう状態でしょうか?

アドラーの言う自立している状態とは

先ずは”””課題の分離”””が出来ている状態のようです。

・自分の課題に他者に介入させない。

かつ

・他者の課題に自分は介入しない。

それが課題の分離が出来ている状態でしょう。

それには

境界の設定

が必要です。

境界の設定は2つ必要です。

・自分の課題に他者を介入させないための境界の設定

・他者の課題に自分は介入しないための境界の設定

の2つです。

先ずは

”””他者の課題に自分は介入しないための境界の設定”””からする

のがオススメです。

自分に要求出来ることは他者にも要求出来るからです。

”””他者の課題に自分は介入しないための境界の設定”””が出来れば

”””自分の課題に他者を介入させないための境界の設定”””はしやすくなると思います

自分の課題に介入してくる他者は

あからさまに傲慢に見える人ばかりではありません。

どう見ても善良にしか見えない人も多いのです。

例えば優しいお母さんの心配などが良い例です。

お母さんをはじめほとんどの大人は

縦の関係の中で生まれ育って今も縦の関係の中で生きています。

現状のまるでカースト制のような縦の関係ヒエラルキーを疑いもせずに受け入れてしまっています。

ほとんどの大人の心配は

(このままでは縦の関係により良く適応出来ないのではないか?

カースト上位に行けないのではないか?)

というのが本音だと言っても過言ではないでしょう。

アドラーは縦の関係を否定しました。

「人間の悩みは全て人間関係の悩みである。」

とアドラーは言いました。

「不幸は縦の関係から生まれる。」

と言い換える事が出来るでしょう。

お母さんの心配は

愛と依存共依存を履き違えている現代社会に生きている以上やむを得ないモノではありますが

幸せにつながるモノではない

不幸につながるモノである。

と言ってしまって良いでしょう。

しかし

そういう善良な人の介入は、認知するのも、ましてや断るのは、簡単な事ではないでしょう。

さらに分かりづらく対処しづらく厄介なのは

被害者などの弱者を演じつつ暗に介入する人です。

それでも

明確な認識と覚悟があれば

分かりづらい介入でも跳ね除けられるのではないでしょうか?

では

仮に介入を認識できたとして

愛する人からの介入を断るにはどうすれば?

ワンステップ入れるのがおすすめです。

「愛してるよ

でも

それはやりません。」

・・・

・介入は暴力

・境界の設定は武力

武道研究家でもある私はそう考えています。

「言葉の暴力。」

と言うように

暴力とは決して腕力によるものだけではありません。介入は暴力です。

従って

武力も腕力によるものだけではありません。境界の設定は武力です。

心に境界の設定をする事は武の本質そのものなのです。

武は本来””弱者のレジスタンスを現実的なモノにする工夫””なのです。

しかし

どんな強者支配者権力者相手にも弱者が武を実践する。

それは不可能に近い難題です。

解決するには何かしらの高度な工夫つまり術が必要です。

それが本来の武術です。

それを編み出し身に付けるには長い長い試行錯誤が必要です。

だから道なのです。

それが本来の武道です。

現状武道団体を名乗っているモノのほとんどは

良くて格闘技ジム

多くはカルト教団

悪いと暴力団や詐欺団体

です。

本物は極々僅かです。

ましてや国家が武力などと言い出したら大抵は騙すつもりかと思われます。

武は弱者のモノです。従って基本原則的には個人のモノです。

例外は例えば

弱者国家が強者国家の暴力から国家を守る

というのが一応考えられなくはありませんが

現代の戦争というのは

私の考えでは

国家間の戦いではありません。

外交の一種です。

つまり

金儲けが目的の国家間の交渉です。

大抵は大規模な地上げでしょう。

893に頼んだら千年掛かる地上げでも

外国の軍隊に頼んだら数年で出来る。

という事でしょう。

国家と国民は別の概念です。

国家が「国を守る。」と言った時

そこに国民は含まれているのかどうか?

国民自身のアタマで考えた方が良いでしょう。

・・・

(今!介入された!!)

という明確な認識を持てるようになる為には

先ずは

(自分が他者にやろうとしているこれは介入ではないだろうか?)

常に自問自答する事を習慣化すると良いのではないか

と私は考えました。

他者の為に出来る事は自分の為にも出来る事

です。

・自分の課題に他者を介入させないための境界の設定

・他者の課題に自分は介入しないための境界の設定

2つの境界の設定は

相互浸透して螺旋状に発展して行く

と私は考えます。

逆に言うと

他者の課題に、自分勝手にホイホイと介入してしまう人は

自分の課題に、他者に勝手にズカズカと介入されてしまう人です。

介入は自立を邪魔し、結果幸せを邪魔します。

長い目で見たら

ほぼ必ずお互い邪魔になり憎しみ合いどちらも狂うことになる

と予想されます。

一見仲良しこよしに見える共依存家族

自分達には何の問題もないと思い込んでいる共依存家族

そんな

家族の問題

それが

ここにあるかと思います。

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